TSUCHIHASHI Masahiro's New Cinema

『動・響・光』
"Ugoki, Hibiki, Hikari"

Intuition of Bodies Casting up Eternity

 


「純粋身体としての映画」  

 19世紀末、ある先駆的哲学者が「身体に対する軽視と無理解」に対する批判を「真の身体性の探求」という形で行っていた。彼は、身体は超越と内在の乖離を調停する唯一の場としての可能性を秘めていると考えたのだ。その思考の継承者達が、20世紀に入り「身体論」として様々な思想の流れを生み出して来た。  

 しかし、現在一般化している身体論は、単純化した唯物論的解釈に陥っているように思われる。人々が欲望充足し、批判無く現実肯定している「現代社会の実情」を正当化する「理論的根拠」として、しばしば身体論が援用されているが、本当に身体論はそのような目的に追従する為に生み出されたのだろうか?

 私には今、現代人が本当に必要とする「新たなる身体論」への道程を切り開く必要性が高まって来ているように思えてならない。それゆえ、本作品は、「映画」という方法論によって「真の身体性の探求」を行なうことを第一の目的として制作されている。  

 

『動・響・光』は以下の4つの映像部位で構成される。


(1) 非在の眼睛(がんせい) (Eyes of Nothingness)

 現在の日本において、紀元前からの縄文文化を継承して、国家権力に破壊されることなく数千年にわたり独自の文化を発展させて来ている架空の民族を想定し、その民族に伝統的に伝わる「ハレ」の場の舞踊を、純然たる「運動と形象と音」で表現するシークエンス。  
 架空民族のシャーマンである「Z」が、「非在そのものである偉大なる無ノ神」「存在の根源である全ての力を司る炎ノ神」「あらゆる生命の父であり母である岩鬼神」「内的闘争と成長を繰り返す原初の人間」「人間と融合する光ノ神」等を称える神聖な舞を踊る。  
  この映像部位は、身体形成の基盤となる「文明」の根源を、通時的側面から遡及的に明らかにする試みである。


(2) 犬と垣根と水溜りの太陽 (Dog, Fence and Sun in A Puddle)

 森に住み、「天狗師(てんぐじ)」と噂さてれている風変わりな老人「X」が、「何かを探しているが、何を探しているのか判らない」という現代人に特有のジレンマを象徴する若い女性「A」に語る、身体に関する様々な美的、哲学的、心理学的、人類学的考察に基づいた幻想的「寓話」のシークエンス。 「木と意志」「壁と垣根」「渡世犬と信号」「拾った左手と複数の太陽」等の教訓的説話が落語調に面白可笑しく語られる。
  その背景には、人間と社会を隔てる大きな軋轢を「身体」において調停する方向性や、あらゆるシステムに内在する不可視的規範を、遂行的に変容させる可能性が隠されている。  
  この物語は、歴史的身体論の成果に基づいて、新たに身体性の探求に向かう「普遍意志」の映画的現前化である。


(3) 午前五時の静寂(しじま) (Silence at 5AM)

 槌橋の故郷、神戸市長田区を題材として、長田出身の女優「N」が語る、阪神淡路大震災の経験や地元特有の文化性を、インタビュー形式で構成する「バーチャル・ドキュメンタリー」のシークエンス。 この映像部位では、身体の形成に深く関わっている土着的文化性と、生活環境における都市、宗教、他者、メディア等に対する身体感覚の実態を提示する。
  その中で、個人を形成している文化構造等の「超個人的領域」と、物理的存在としての「肉体」の各々が、「如何様に混交してひとつの身体として在るのか」を考察する。これは、「風土」と「身体」の関係を、共時的側面から実体的に明らかにする試みである。
  また、敢えて「事実の記述を創作によって提示する」という「フェイク性」を用いて、「偽り無いリアリティーの知覚とは何か」を観客に再考させることも意図している。


(4) 生成の無垢 (Purity of Becoming)  

 (1)から(3)の随所に挿入する「詩の朗読」と、美と身体に関する絵画、風景などの「映像の断片」。これらは、「詩や絵画や風景」を「思考や感情や記憶」に直接的に関連づけることにより「美における身体性」を明確に提示することを意図している。  
  「美」は我々の「秘められたる真の身体」の最も高純度な具現化と言える。その解析は、人間の隠蔽された実像に肉薄し、身体の神秘を実感する近道となる。さらにその先には、「生そのもの」「存在そのもの」「非在」とは何かを知覚する可能性も孕んでいる。  


  これらの映像部位は錯綜して結合し、総体としては、我々の物理的存在としての「肉体」を超えた「純粋身体としての映画」を形成することになる。


  映画(芸術)の「実体」とは、知覚対象物として人間の外に存在しているものでは無く、映画(芸術)の物質的側面が誘発する「透過的真理の光」を受容した人間の中に、新たな身体内エネルギーとして再生成される「複合化した真理の輝き」なのである。
  すなわち映画(芸術)とは、現象界において失なわれている、我々の「身体のエッセンス」そのものであると言えよう。


  我々映画創作者は、作品に関与した全ての「身体」が導き出すこの「輝き」が、人類の新しい道程を、幾許かでも照らし出さんことを期待している。


槌橋雅博

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