映画上映後、各会場で交わされた
観客との白熱したディスカッション

2000年2月15日 Delphiにて(通訳:福沢氏)

ディスカッションの会場となったDelphi

Q:この作品は妥協を排したというか、非常にある意味でラジカルな作品であると思います。こういった作品の制作・完成に至るまでには、そう簡単ではなかったと思いますし、長い間の準備があったと想像します。監督にとってデビュー作、劇場用作品としては初めてと伺っていますので、その辺の事情、苦労話からお願いします。

槌橋:製作に関しては、脚本とプリプロダクションからだと5年、撮影始めてからだと4年かかっています。最初の1年目に撮影途中で主演男優をクビにしまして、この映画は必ず秋に撮ると決めていたので、次の秋まで撮影を1年延ばすことになりました。それによって主演女優がスケジュール問題で出演不可能になり、また探し直すことになりました。そして時間をかけて彼女を探し出して撮影を開始し、次の年には全てのシーズン、四季を山に行って撮り、それから編集に1年かかり、またその間に脚本を書き足し、編集中に追加撮影したりしてやっと出来あがりました。

質問に意欲的に答える槌橋監督

Q:この映画の最初のシーンからショックを受けました。というのは昔の男友達が訪ねて来て、一緒に死んでくれという。女主人公はそれを受ける訳ですけれども、それが何故受けるのかというのがわからないまま、ずっと物語は発展していく。それを追いかける形で映画をずっと見ていったのですが、彼女が、この二人が、死に対するある意味でのあこがれみたいなものを深い欲望として存在している、ということは感じたのですが、それがどこから来るのか、というのがわからないままきているのですが。

槌橋:それは説明できないです。なぜならその様なものに対する理解が本質的にある人はあるし、ない人はないので。ある人間には、それはアプリオリにある、ということです。ない人には説明できないのですが、それは事実として自然の中の存在しているので、木から枯葉が落ちるのと同じようにあるという事です。(注:下記参照)

Q:資本主義、社会の批判、あるいは文明批判というものを含んでいるのでしょうか。

槌橋:当然含んでいますが、小さい問題で、世代や時間的制約によって限定されるような事に対して語っている訳でなくて、もっと普遍的なこと、瞬間と永遠、無と存在という全体について語っているのです。さらに人間自体と人間を超えたもの、存在するものと、存在しないものについて語っているということです。

Q:難しい役だと思いますが、どのようにしてこの役を演じきったのでしょうか。

山下:響子のセリフに「全ての可能性は自分のなかにある」という言葉がありますが、このセリフに女優としても一人の女性としても、すごく励まされました。全ての世代において言えることだと思いますが、可能性を信じて強く生きていくというメッセージは、本当に強く自分に響きました。

Q:この映画は我々ヨーロッパ人から見て、非常に個人思想を扱っていて、それを表明していると思いました。今まで我々が日本、日本社会と聞いた時、個人というより大きな単位の人間、例えばある団体とかグループとかいう形で動いていると理解しています。例えば女主人公にしても親の死後、選挙の地盤を引き継いだり、会社を引き継いだりすることを周りの人間、家族や親族いろんな人が集まって決めようとする。それに対して個人として抵抗して最後に自分のやりたいことをやる、というのは個人主義を強調していると取るのですが、それでいいのでしょうか。

槌橋:それは違います。当然個人的な発想はあります。が、そうではなくてこの映画で語られている個人的価値と思えることが、実は非常に普遍的である、ということなのです。私もこの映画で個人的な価値判断をしているつもりは全くありません。 私がこの映画で語ったことは、すでに世界にとっくの昔から存在していて、ある種の普遍性をもって誰もが語っていることです。私の尊敬する偉大な芸術家、哲学者、音楽家、画家、小説家、全ての人が同じことを語っています。そのような違うジャンルの中で同じ事が語られている、その同じ内容を私はこの映画で語っているので、まったく個人主義的ではありません。

「この映画を観て力づけられた」と語る観客

30代男:この映画の最初は死ということから始まって、最後には生きる、とか、創造性とか、生きる上での、、死とは反対の方向へ突き進む、移行している感じを受けましたが、生き続けるための力添えとかを、最後に感じましたが、そういう理解の仕方でいいのでしょうか。

槌橋:そのとおりです!基本的に私は生自体には、生きるということについての根拠立てというか、必然性ということがないように考えます。私達は生きるための必然性を無根拠に提示して、あえて創造してゆくことなしに生きることはできない、という風に考えるのです。だから、そのような力添えができたのなら、良かったと思います。

30代女:コンクリートの山は、バベルの塔をイメージしたのですか。

槌橋:あれはそうではなく、単にコンクリートの塊でしかないのです。最初のプランでは平べったく積むという予定でしたが、別の形にしたというのは美的な要求からで、美術的、芸術的な形である必然性があったので、あの様な形になっただけで、一切、塔ではありません。コンクリートとして存在していますが、それは存在していないのと同じだという物としてあるのです。存在でありかつ存在でない、純粋な行為としてあるということです。

上映後、監督に感動を訴える観客

Q:塔かどうかは別として、コンクリートで作られたものが、まだ存在しているもですか。 自然を破壊しつづけているのでしょうか。

槌橋:映画の中で、ですか。

Q:そうです。

槌橋:あれは存在しています。実質的には自然を破壊しています。しかしそのような自然破壊も辞さないという意志がなければ、本質には至れないということです。映画の中でも言いますが、「自分の最も偉大な価値に敵対する」という言葉、これはもともと「神に敵対する」というニーチェの言葉ですだったのですが、そういうことが必要なのです。 主人公は非常に自然を愛しているのですが、自然を愛する人間が自然を破壊することも厭わない、というような行為、意志の強さというものがなければならなかったのです。 付け加えますと、実は映画の最後には、塔の下の部分には緑がずっと一体化している。自然と反自然なものが同一のものとしてなっている。なぜならば人間というものは自然の一部であって自然と敵対するものではない。自然は存在全体を司るけれども、存在の中で唯一人間だけが存在しないものを内包する。その存在しないものを自然の中に存在させるために、自然は人間を必要としているので、人間は自然のなかで非常に重要な生き物であるということなのです。結局、人間は生き続けるために自然破壊ということをしてしまっているのですが、そのような愚かさも含んだ上で、それでも人間は自然の一部であると考えます。

40代男:キリスト教というのは日本社会ではあまり重要ではない、力を持っていないというように聞いていますが、それにも関わらずこの作品の中ではキリスト教のいろんな物を使っている、存在と非存在ということにしても、非常にキリスト教的な感じをあたえるのですが、どうなんでしょうか。

槌橋:存在・非存在がキリスト教的であるというのは、一種の偏見で、それは東洋にもある考え方です。西洋と異なる点は何かというと、その存在と非存在が一体化していくというところが、東洋的なのです。基本的にはそれが同一のものであるということです。 最終的に作ったセメントも、内部も外部も同一のものである、部分も全体も同じ価値を持つ、つまり部分も全体もないというところがポイントになってきます。この考え方は、基本的には世界中にあることなのです。存在と無というのは普遍的な認識なのです。 それとはべつに、あえてキリスト教的なものを使っていろというのは、まず我々日本人は近代ヨーロッパ的発想に影響されていて、近代社会に生きていて、はっきり言って日本人といっても伝統的なものと大して関係がない。このような近代社会においては、もはや伝統は文化を語る上で重要なものではなく、我々に現前としてとしてあるのは風土だけだと思っています。今の風土というのは、東洋的なものと西洋的なものが融合しているものなのです。 もう一つの点は、キリスト教というものは異文化の象徴である、ということです。日本文化というものの限界性を突き抜ける突破口を切り開く、つまり、知性と感覚のパラダイムと文化的言語ゲームの外に出るためのツールの一つとして利用するということです。

Q:難しい製作条件のもとに作られたと思いますが。

吉川:撮影、編集で4年かかっています。当初パッケージされたプランがあって、それをいかに進めるかということではなく、妥協のないもの、もっといいいものを作っていくということで、どんどんプランが変更になっていく。時間も延びてくる。そうなると人間が関わっているので、体力の消耗、疲労がたまっていきます。現場での限界を超えてやっていくテンションを保つこと、テンションは映像にも表れてくるので、それが一番難しかったです。

Q:時間が無くなってしまったのでこの辺で終わらせていただきたいと思います。監督は英語が堪能なので、英語を話せる方々は直接監督とお話ください。隣にはカフェもありますので。みなさん、今日はありがとうございました。
(注) ここで言おうかどうか迷って結局言わなかったことがあります。それはこの映画が「究極のラブストーリー」だということです。それを言わなかったのは、この映画が同時に「究極のハードボイルド」であるからです。(槌橋)
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